園庭でしゃがんでいる子の隣に、別の子がそっとしゃがむ。 二人は何かを小さな声で相談して、それから立ち上がり、何ごともなかったように走り出す。
少し離れたところに、保育士が立っている。 声はかけない。近づきもしない。 でも、二人の様子は見ている。
迎えに来た保護者は、その場面を見ていない。 連絡帳にも、書きにくい。出席率にも、事故率にも、現れない。
それでも、その「少し離れて見ていたこと」が、何かを支えていたことを、現場の人は知っている。
「保育の質」と呼ばれるものは、しばしば、こういう場所にある。施設面積や保育士の人数では描ききれず、写真にも撮りにくいけれど、確かにそこで何かが動いている。
保育の質は、どこに現れるのか。
測れる質と、測りにくい質の両方を、いったん別々に置いてみたい。
「質」は二つの層で語られてきた
国際的な保育研究の領域では、保育の質は長く、おおまかに二つの層に分けて整理されてきました。
ひとつは構造的な質(structural quality)。職員配置、保育士の資格、面積、年齢構成、安全基準、研修制度——制度や規則として外から確認できる層です。もうひとつは過程の質(process quality)。子どもと保育者の日々の関わり、言葉かけ、環境の整え方、活動の組み立て——その場で起きている相互作用そのものの層です。
OECD の最近の整理でも、この二層の枠組みが基本に置かれています(OECD, Process Quality, Curriculum and Pedagogy in ECEC, 2021)。「構造は過程の条件であり、過程は子どもへの作用の経路である」、と整理されています(要約引用)。
評価ツールの代表は、Harms らが開発した ECERS(Early Childhood Environment Rating Scale)系列です。改訂版 ECERS-R が長く広く使われてきました。これは保育環境の構造と過程の両方を、観察によって項目別に評価する尺度です。
体系的レビュー研究のひとつ(Brunsek et al., 2017, PLOS One)は、ECERS と子どもの発達指標の関連について 48 件の研究を統合し、関連はあるが、効果量はおおむね小さく、研究間のばらつきも大きい、と報告しています。「質を測るほど、子どもの発達が予測できる」という単純な関数になっていない、ということが、研究側の到達点として確認されてきた、と読めます。
最近の scoping review(Frontiers in Early Childhood / ECERS scoping review, 2025)も、ECERS の使われ方の分布を整理しつつ、「全領域に通用する単一の質定義は、まだ無い」と書いています。
何を読めたか
ここで読めたのは、保育の質を測ろうとする研究の蓄積が四半世紀以上にわたって続いていて、それでもなお、「質はここに現れる」と言い切れるひとつの場所には、たどり着いていない、ということでした。
日本の文脈で、どう扱われているか
日本では、保育の質を語る言葉のひとつとして、厚生労働省(現・こども家庭庁)が 2020 年に改訂した「保育所における自己評価ガイドライン」があります(厚生労働省, 保育所における自己評価ガイドライン 2020年改訂版 / こども家庭庁 保育)。
このガイドラインは、保育の質を、施設の最低基準や人員配置のような外側の条件だけでなく、保育所が自らの保育の過程を継続的に振り返り、改善していくプロセスとして扱おうとしています。
厚生労働省の検討会資料には、保育の質を考える枠組みとして「環境」「保育士等の関わり」「組織的取組」など複数の観点を並べたものが含まれています(保育所等における保育の質の確保・向上に関する基礎資料 / 関連資料)。
国際的な「構造 vs 過程」の枠組みと、日本の制度的言語のあいだに、用語の一対一対応はありません。「環境」と「保育士等の関わり」と「組織的取組」を、それぞれ「構造の質の一部 + 過程の質の入口 + 組織側の条件」と読み替える作業が、研究者と現場のあいだで続いています。
ECERS と SSTEW のあいだ
構造と過程の二層の中でも、特に「保育者と子どもの相互作用そのもの」を取り出そうとする尺度として、SSTEW(Sustained Shared Thinking and Emotional Well-being)が後発で登場しています。日本の研究でも、ECERS と SSTEW を比較しながら、アジア太平洋地域の保育実践をどう捉えるかを論じた研究があります(Akita et al., ECERS と SSTEW の可能性, ResearchGate 経由)。
SSTEW が拾おうとしているのは、保育者と子どもの「持続的に共有された思考」と「情緒的な安心」です。子どもの問いに対して、保育者がすぐ答えを与えるのでなく、一緒に考える時間を持つ。子どもの感情の揺れを、抑え込むのでなく、見届けながら言葉を添える——こういう細かい相互作用を、評価項目として書き出そうとしています。
ただし、SSTEW のような尺度も、観察者の解釈に依存する部分が残ります。「同じ場面を見ても、観察者によって点数が違う」という再現性の問題は、研究の中で繰り返し議論されてきました(Pessanha et al., 2017, PMC ほか)。
「測れない質」が残る理由
これらの研究を並べてみると、保育の質には、構造のレベルで測れる部分、観察項目で拾える過程の部分、そして観察項目には乗りにくい部分、というおおまかに三つの層があるように見えてきます。
園庭で子どもの隣にしゃがむ。声をかけずに少し離れたところに立つ。連絡帳に書きにくい時間を、書きにくいまま残す——こういう動きは、観察項目で「ある/ない」として記録するには細かすぎて、それでいて、その動きの蓄積が現場の感触を作っている、と現場の人たちは語ります。
研究側もそのことを知らないわけではない。だから尺度は改訂を重ねている。それでも、観察項目の網目を細かくすればするほど、評価のコストが上がり、観察者のあいだの一致率が下がる、というトレードオフが残ります。
「測れない質」は、計測技術の不足ではなく、評価という営み自体の構造から、ある程度は残り続けるものとして扱われてきている、と読めました。
何が変わったのか
少し前まで、保育の質は「施設や人員配置の基準を満たしているか」という構造の話と、「保育士の経験や技術がどれくらいあるか」という個人の話で語られることが多かったように思います。
ここ20年あまりの保育研究が指し直したのは、視点の置き方のほうでした。質は、施設の中にあるのでも、保育士の中にあるのでもなく、保育者と子どもと環境のあいだに起きている過程そのものにある、という方向です。
そして、過程は外から見えにくい。だから測ろうとすると尺度が必要になり、尺度を作ると今度はその尺度自体の限界が問題になる——という再帰的な構造を抱えながら、研究は進んできました。
加えて、子どもの発達指標を「アウトカム」として置いて、それを質の妥当性検証に使う、というアプローチ自体への問い直しも進んでいます。子どもの育ちは、保育の質だけで決まるものではないし、保育の質を「子どもの発達に効くもの」だけに切り詰めると、保育の中で起きている、その他のたくさんのことが落ちてしまう。
ここから考えたこと
ここから先は、読めた事実そのものではなく、それをどう受け取ったか、という解釈です。事実と分けて書きます。
研究を読み終えて、私の中で残ったのは、保育の質を測ろうとする努力と、保育の質を測れないものとして扱う姿勢の、両方が同時に要る、という感触でした。
質を構造と過程に分け、項目化して観察するアプローチは、制度設計のためにはほぼ必須の作業です。最低基準を割っている園を見つけて、子どもの安全を守るためには、外から見える指標が要る。そこを否定すると、現場の負担が一方的に増えるだけです。
一方で、項目化された観察だけで質を語ろうとすると、現場の人たちが日々細かく組み立てている、項目に乗りにくい無数の動きが、存在しないことにされてしまう。それは現場の側にとって、たぶん大きな否認の感覚を生みます。
研究側がここ数年で書いているのは、「測れる質と、測りにくい質の両方を、別物として同じテーブルに並べておく」というような態度に近いように読めます。一方を他方で代用しない。一方の進展で他方を覆い隠さない。
私自身は保育の現場で日々働いた経験を持っていないので、ここに書いた解釈の射程はとても狭いものです。現場の人たちの言葉と、研究の枠組みのあいだには、もっと多くの中間の層があるはずで、そこを聞かないままに「保育の質はどこにあるか」を語り切ることはできません。本記事は、外から研究の枠組みを並べてみる、というところまでで止めます。
残った問い
ここまで読んでも、まだはっきり分かれていないところがあります。
「測れない質」を、どんな言葉で扱えるのか。 観察項目では拾いきれない動きを、研究の言葉でも、現場の言葉でも、まだ十分には共有できていないように見えます。保育者の語り(ナラティブ)を分析する研究も増えてきていますが、その語り自体が、現場の動きをどこまで運べているかは、別の問いとして残ります。
評価することと、改善することは、同じ過程か。 自己評価ガイドラインは、「評価のための評価」を避け、改善につなげる過程として組まれています。けれど、評価作業そのものが現場の負担になり、書類のためのチェック項目に転化しやすい——という現場側の声は、複数の媒体で繰り返し出てきます。本記事ではその構造には踏み込んでいません。
保育の質と、保育者の働きやすさ。 質の高さを保つためには、保育者が燃え尽きずに働き続けられる条件が要ります。介護労働の領域では、業務量・報酬・職場の凝集性などが研究されてきましたが、保育者の側で同じ角度から定量的に整理した研究には、本記事の検索範囲では十分に到達できていません。介護と並べて読むべき領域です。
保育観の多様性。 「いい保育」の像は、家庭・地域・時代・国によってかなり違います。研究の枠組みは、その多様性をどう扱うか、という別の問いを抱えています。日本の中でも、地域ごと、施設ごと、保育者ごとに、目指す保育像はかなり違うはずです。
次に読みたい問い
保育の質を読みながら気づいたのは、見えにくいものを言葉にしようとする努力が、結局のところ「測る側」と「測られる側」の関係そのものを問い直していく、ということでした。
近すぎる現実(介護)、日常に埋もれる現実(保育)と来て、次は遠すぎる現実を読みたいと思います。手元の感覚からは遠く、何百万年・何十億年という時間の単位で動いている宇宙の現象を、私たちはどう「読む」のか。遠さは、近さと違う扱いを要求するはずです。
読んだ痕跡
この記事で読めた範囲と、読めなかったところを残しておきます。
ECERS / ECERS-R は、Harms らによる原典の本体までは到達できていません。本記事の整理は、二次的なレビュー論文と OECD のワーキングペーパー経由での確認にとどまっています。スコープレビュー(Frontiers, 2025)は本文を当たれましたが、メタ分析(Brunsek et al., 2017)は abstract と公開要約までの確認です。
日本の自己評価ガイドラインの本文は、PDFには到達しましたが、本記事では基本的考え方と「3つの観点」のレベルでの参照にとどめています。本文中で展開されている保育者の事例や、自己評価のプロセスの細部までは、本記事では引いていません。
SSTEW については、英語圏の先行研究と日本のアジア太平洋研究を並べたのみで、SSTEW 原典(Siraj et al.)には到達できていません。
何より、本記事は研究の枠組みを外から並べる作業に終始しており、現場の保育者の語り・保護者の側からの受け取り・子ども自身の経験の側には届けていません。「保育の質はどこに現れるのか」を本当に読むためには、これらを聞かないと半分以上は欠けたままです。
保育の領域は、書き手の身近な実務領域とも重なる部分があります。だから、わかった気にならないよう、本記事では現場の事例や具体的な園名を扱わず、研究の枠組みのレベルまでにとどめました。それでも、ここに書いた言葉の選び方には、書き手の限られた経験が混ざっている可能性があります。
これは、2026年6月25日時点での情報にもとづく読みです。新しい資料に出会えば、また読み直します。