朝、目を開けたときに、肩のあたりが少しこわばっている。胃の奥が重い気がする。歩き出すと、左の足首が、ほんの一瞬だけ引っかかる。
ほとんどの場合、こうした感覚は「気のせい」として通り過ぎていく。コーヒーを飲み、メールを返し、最初の予定に間に合うように家を出る。違和感は、感じたことすら忘れる。
たまに、忘れられない。「これはいつもと違うかもしれない」と感じて、もう一度立ち止まる。さらに少数の場合、誰かに話す。さらに少数の場合、診察を予約する。
身体そのものは、たぶん、最初の朝とそれほど変わっていない。変わっているのは、その感覚に与えた扱いのほうです。
身体の違和感は、いつ「問い」になるのか。気のせいの段と、誰かに話す段と、診察を予約する段のあいだに、何が起きているのか。
なお、これは医学的な助言ではありません。違和感を「気にしすぎ」と切ることも、「すぐ受診せよ」と煽ることもしないように書いています。間にある層を、いまのところ私が読めた範囲で読んでいくメモとして書きました。
「ある」と「感じる」のあいだ
身体の内側からくる感覚——心拍が早い、呼吸が浅い、胃が重い、肩がこわばる、足先が冷たい——これらをまとめて指す言葉として、研究分野では interoception(インテロセプション、内受容感覚)という語が使われています。
この感覚を「気づき」のレベルで測ろうという尺度のひとつが、Multidimensional Assessment of Interoceptive Awareness(MAIA)という質問紙です。Mehling らが 2012 年に PLOS One に出した尺度で、2018 年に改訂版の MAIA-2 が同誌に出ています(Mehling et al., 2012, PLOS One / Mehling et al., 2018, MAIA-2 / PMC全文)。
MAIA-2 は 37 項目を、八つの下位尺度に分けています。
気づき(Noticing) — 心地よい・心地よくない・どちらでもない身体感覚に気づく傾向。
気をそらさない(Not-Distracting) — 不快な感覚から目をそらさず、いったん感じる傾向。
心配しすぎない(Not-Worrying) — 不快な感覚を感じても、それで頭がいっぱいにならない傾向。
注意の調整(Attention Regulation) — 身体感覚に注意を向けたり、別の方向に向けたりできる柔軟性。
感情への気づき(Emotional Awareness) — 身体感覚と感情のつながりに気づく傾向。
自己調整(Self-Regulation) — 身体感覚を手がかりに、自分を落ち着けたり整えたりできる感覚。
身体に耳を傾ける(Body Listening) — 身体からの情報を、判断材料として受け取る傾向。
身体への信頼(Trust) — 自分の身体は、おおむね安全で頼れる、という感覚。
八つの軸の名前を並べていて気づくのは、「身体に何があるか」だけでなく、「それをどう扱うか」までが、ひと続きの能力として測られている、ということです。気づくこと、気をそらさないこと、心配しすぎないこと、注意を切り替えられること——どれも、感覚そのものではなく、感覚との関わり方の話です。
つまり、ある感覚が「ある」ことと、それを「感じる」ことは、ひと続きでありながら、別の動きとして起きうる。
何を読めたか
ここで読めたのは、違和感が「問い」になるかどうかには、感覚そのものよりも手前のところで、いくつかの分岐が入っている、ということでした。
ラベルが、感じ方を変えていく
Lisa Feldman Barrett が 2017 年に Social Cognitive and Affective Neuroscience に出した論文は、感情を「身体感覚の上に、概念で意味づけられたもの」として読み直す枠組みを提案しています(Barrett, 2017, SCAN / PubMed)。
彼女の言い方では、脳は身体からの内受容信号をそのまま受け取っているのではなく、過去の経験から作った「概念」を使ってその信号を分類している。分類されることで初めて、その信号は「不安」「疲れ」「空腹」「怒り」といった意味を帯びる。
論文の中で繰り返されるフレーズのひとつは、こうです(要約引用)。「脳は感情概念を使って感覚を分類することで、ある感情の実例を構成する」。
これは抽象的に聞こえますが、日常で考えると、それほど不思議な話ではありません。胸のあたりがざわつく、と感じたとき、それを「不安」と名づけるか、「これから話す予定への期待」と名づけるかで、身体の続きの動きが変わる経験は、多くの人が知っているはずです。
ここで重要なのは、名づけのほうが感じ方を変える、という方向の作用です。感じてから名づけるだけでなく、名づけ方の手持ちが感じ方の手前にすでに置かれている。
違和感を「症状」と呼ぶ前
身体の違和感を「症状」と呼ぶ瞬間は、たぶん日常の中で何度もあります。それを「気のせい」「疲れ」「年齢」と呼んでいる段では、診察室には行かない。「症状」と呼んだ瞬間に、その感覚は別の文脈に入る。
プライマリケアの研究領域では、診察室に来る患者さんの 10〜20% は、検査をしても物理的な疾患では説明しきれない症状を訴えている、と報告されています(Medically Unexplained Symptoms = MUS。Burton et al., Adv Psychiatr Treat ほか、複数のレビューで言及されている数字)。
注意したいのは、これは「気のせい」という意味ではない、という点です。症状は実際にあるけれど、いまの医学の枠組みで使える説明と完全には噛み合わない、という意味の用語として使われています。
このグループの患者さんの診察を扱った研究で、Salmon らが 2009 年に出した論文があります(Salmon et al., J Gen Intern Med)。MUS の患者さんが、医師に対して何を求めているかを、相手の発話と要望の対応関係から読み解こうとした研究です。
そこで読めたことのひとつが、患者さんは「感情的な支え(emotional support)」を求めているとき、それを比較的わかりやすく言葉にしている、ということでした。一方、「身体的な処置(somatic intervention)」を求めているときには、それを直接の依頼として口にすることは少なく、症状の細部を話すことを通して示そうとしている。
論文の表現を借りれば、患者は感情的な支えを求めるときには「比較的透明(transparent)」だが、身体的な処置を求めるときには「特に注意深い(guarded)」。
違和感の解釈をめぐる、見えない交渉
同じ問題を、医師の側から見た研究もあります。Peters らが 2002 年に Family Practice に出した、英国北西部の GP(一般医)15 名へのインタビュー研究です(Peters et al., 2002, Family Practice)。
論文は、こうした診察が「コントロールと権威の問題」を抱えていて、それが医師と患者の関係に負の影響を与えうる、と書いています。医師の側は、症状を心理的なものとして扱いたい局面と、患者の側はそれを身体の問題として扱ってほしい局面とのあいだで、引っ張り合いが起きやすい。論文は「医師は対応に手応えを感じにくく、患者には不利益が生じる可能性がある」と整理しています。
つまり、診察室の中で起きているのは、症状そのものの読解だけでなく、その症状を「身体の問題として扱うか」「心理の問題として扱うか」「経過観察にとどめるか」という、解釈の枠組みをめぐる、しばしば言葉にされない交渉でもあります。
身体の違和感が「問い」になって診察室に持ち込まれたあとも、その問いは、医師と患者のあいだで一度組み直される。
何が変わったのか
ここ20年ほどの interoception 研究や、ここ四半世紀の MUS 研究を並べてみると、視点の位置が動いたことが見えます。
少し前まで、身体の症状は、まず本人の中にあって、それが医師の前に持ち出されたときに「医学的に説明できるかどうか」が問われる、という構図で語られていました。本人の中で完成した症状を、医師が受け取って解釈する、という方向です。
いま見えてきているのは、症状が「ある」と感じられる段、それを「症状」と名づける段、誰かに話す段、診察に持っていく段、医師がそれを別の名前に組み直す段——どの段でも、感覚と言葉が互いを作り変えながら進んでいる、という方向です。
身体は最初から「症状」を持っていたのではなく、感覚と言葉が往復するうちに、その輪郭がだんだん「症状」と呼べる形になっていく。
ここから考えたこと
ここから先は、読めた事実そのものではなく、それをどう受け取ったか、という解釈です。事実と分けて書きます。
研究を読み終えて、私の中で残ったのは、違和感を早く言葉にすればいい、という単純な話ではない、という感触でした。
Barrett の枠組みを文字通り受け取れば、ある感覚に名前を与えた瞬間に、それは別のものになる。「不安」と呼べばその方向に身体の続きが動き、「期待」と呼べば別の方向に動く。だとすれば、急いで名前を与えることには、誤って固定してしまうリスクもあります。
一方で、MAIA-2 の八つの下位尺度を思い出すと、「気づく」だけが推奨されているのではないことが見えてきます。「気をそらさない」も入っているけれど、「注意の調整」も「心配しすぎない」も同じ列にある。身体感覚との関わり方は、ひとつの動きではなく、複数の動きの組み合わせとして扱われている。
そのうえで、Salmon らの研究が示したように、違和感を「感情的な支えが必要だ」と読むのと、「身体的な処置が必要だ」と読むのとでは、その後に起きる動きがかなり違ってしまう。違和感が問いになる過程は、本人の中で閉じていない。本人と、周りの人と、診察室と、保険制度と、診断名のあいだで、共同で進んでいる。
私にできるのは、たぶん、違和感を感じたあとに「これは何か」と名前を急がない一拍を置くこと、そして、その一拍の中で、自分が選びかけている名前以外にどんな名前がありうるかを、ひとつかふたつ並べてみることだと思いました。それでも間違うことを前提に置きながら。
残った問い
ここまで読んでも、まだはっきり分かれていないところがあります。
「気づきすぎ」と「気づかなさすぎ」のあいだは、どう測れるのか。 MAIA-2 の「気をそらさない」と「心配しすぎない」は、ある意味で相反する方向にも見えます。どちらかが極端になると不利益が大きいことは想像できますが、両者の最適なバランスを示した研究には十分に到達できていません。
身体の違和感を、本人がどう「名づけ直す」かは、訓練できるのか。 マインドフルネス系の介入、認知行動療法、ボディワークなど、いくつかの実践がこの「名づけ直し」を扱おうとしてはいます。介入の効果が報告されているものもありますが、効果がどこから来ていて、どの集団に届くのかは、まだ分かれているように見えます。
文化と言語による違いは、どの程度大きいのか。 身体感覚を表す語彙は、言語ごとにかなり違うことが知られています。日本語の「だるい」「重い」「すっきりしない」のような語が、英語圏の感覚語と一対一に対応するわけではありません。Barrett の理論を文字通り受け取れば、語彙の違いは感じ方そのものに作用するはずですが、その実証研究には本記事の範囲では十分に当たれていません。
医療の側が違和感をどう受け取るかの分布。 MUS をめぐる医師側の対応は、医師個人差・診療所差・地域差・国差が大きいと複数の研究が示唆しています。どんな条件で「身体の話として扱われる」「心理の話として扱われる」「保留される」が起きるのかの全体地図には、まだ届いていません。
次に読みたい問い
違和感が「問い」になっていく途中で、本人と医師のあいだに、共有された名前がいくつか入っていました。「症状」「不安」「ストレス」「過労」「未病」「発達特性」——これらの名前の多くは、医学だけでなく、行政や保険制度の側からも供給されています。
申請書や通知文に並ぶ名前は、誰かの違和感を拾い上げる入口にもなり、別の違和感を見えなくする扉にもなる。次の記事では、もう少し外側に出て、制度が違和感をどう言葉にしているかを読みたいと思います。
読んだ痕跡
この記事で読めた範囲と、読めなかったところを残しておきます。
interoception 関連は MAIA / MAIA-2 を起点にしました。MAIA-2 は本文(PLOS One 掲載・PMC 全文)まで当たりました。Barrett の構築的感情理論は、SCAN 掲載論文の本文に当たりましたが、長大な論文の主要主張だけを引いています。実証データ部分の細部までは追えていません。
MUS(Medically Unexplained Symptoms)まわりは、Salmon et al. 2009 と Peters et al. 2002 の本文に当たりました。MUS の有病率(10〜20%)はいくつかのレビュー論文で示されている数字ですが、調査ごとに定義が違うため、率だけが一人歩きしないよう本文でも書きました。
日本語の身体感覚語彙、東アジア医学の身体観、文化精神医学の領域には、本記事では十分に踏み込めていません。これらは、interoception 研究とつなぐ価値が大きいと感じていますが、別の問いとして残しています。
そして、この記事は医学的な助言ではありません。違和感の扱いに迷ったとき、ここに書かれた研究の枠組みが、診察を受けるかどうかの判断材料にならないように書いたつもりです。実際の判断は、目の前の身体と、信頼できる医療者との会話の中で進むべきものです。
これは、2026年6月25日時点での情報にもとづく読みです。新しい資料に出会えば、また読み直します。