明日の予定をカレンダーに書き込む。来月の支払いを口座に残しておく。来年の保険を更新する。三十年後の老いに備えて、いまのうちにと体を動かす。
これらは全部、まだ来ていないことのために、いま動いている動きです。
未来は、まだ来ていない。それは定義の話としては正しい。けれど、来ていないはずの何かが、今日の自分の手や、来週の会議の議題や、十年先を見越した政策決定を、確かに組み立てている。
未来は、どこから現在に入り込むのか。
予測なのか、計画なのか、不安なのか、期待なのか、シナリオなのか。それぞれが、現在に入る経路の違うルートのように見える。
「未来を当てる」と「未来を持って動く」
未来をどう扱うかについては、おおまかに二つの伝統が並んできました。
ひとつは、未来をできるだけ正確に当てようとする伝統。気象予報、選挙予測、経済予測、地震予知、感染症の流行予測——確率や信頼区間を添えて、起こりやすさを定量化する方向です。
もうひとつは、未来を当てるのを諦めて、複数の未来に同時に備えるための方法を作る伝統。経営の領域では、シナリオ計画と呼ばれてきた手法がその代表です。
このふたつは、対立するわけではありません。むしろ、別々の問いに別々に答えていて、両方が要る、という関係に近い。
何を読めたか
ここで読めたのは、未来は「ひとつの方法」で扱える対象ではない、ということでした。当てに行く対象、備えに行く対象、避けに行く対象、招きに行く対象——同じ「未来」と呼んでも、扱い方の階層がいくつかある。
予測の精度は、訓練で動く
未来を当てる側の研究で、近年もっとも参照されているのが、Philip Tetlock らによる Good Judgment Project です(The Good Judgment Project — Wikipedia / Good Judgment 公式概要)。
2011 年に米国情報機関の研究組織 IARPA が主催した、地政学的事象の予測トーナメント。500 問以上の予測課題に、100 万件を超える予測が寄せられた、4 年にわたる大規模研究です。
Tetlock らのチームは、政府の対照群を 1 年目で 60%、2 年目で 78% 上回る精度を出した、と報告されています(GJP 結果整理 — AI Impacts / Superforecasters’ Track Record)。中でも特に精度の高かった人たちを「スーパー予測者(superforecasters)」と呼び、約 260 名が同定されました。
おもしろいのは、その人たちが特別な情報源や直感を持っていたわけではないことでした。彼らに共通していたのは、確率を細かく更新する習慣(自分の予測を頻繁に見直す)、複数の見方を並べる癖、自分が間違える可能性をあらかじめ織り込む姿勢——だった、と整理されています。
そして、訓練の効果も報告されています。1 時間程度の確率推論の基礎講習を受けるだけで、予測精度がおよそ 10% 改善する、という報告が含まれています。
ただし、この研究にも限界はあります。地政学的事象という、答えがいつか確定する対象だから測れた、という側面が大きい。気候のような百年単位の話、社会の構造変化、文化の動きなどには、同じ手法はそのまま当てはまらない。
当てない方向の準備
もうひとつの伝統が、シナリオ計画です。1970 年代に、Royal Dutch Shell(現在の Shell)の計画部門で、Pierre Wack を中心に体系化されました(Pierre Wack on scenarios — The Next Wave Futures / The Man Who Saw the Future — Strategy+Business / Living in the Futures — Harvard Business Review/Salzburg Global)。
Wack のチームは 1971 年、産油国が原油供給を大きく絞る可能性を含めた複数のシナリオを、Shell の経営委員会に提示しました。その 2 年後の 1973 年に起きた第一次石油危機で、Shell はメジャー石油会社の中でいち早く対応できた、と語られています。
Wack 自身の整理で特徴的なのは、シナリオ計画の目的を「不確実性を可視化することではなく、不確実性を踏まえた上で意思決定に至ること」と書いている点でした(Scenario planning: Pierre Wack’s hidden messages — ScienceDirect)。
シナリオは未来を当てるためではなく、経営者の頭の中にある未来像を組み直すための装置として設計されている、という見方です。Wack は、データをいくら増やしても、意思決定者が別の世界を想像できなければ行動は変わらない、と書いています(要約引用)。
ここで使われている動詞は「想像する」「組み直す」「気づく」のほうで、「予測する」「当てる」ではない。「同じ未来」を当てに行くのか、「複数の未来」を頭の中に並べに行くのか、という方向の違いです。
確率と非確率のあいだ
予測の精度と、シナリオの想像力の中間には、両方では扱いにくい領域があります。気候変動のように、数十年からさらに長い時間にわたって影響が積み重なるもの、長期の人口動態、技術の不連続な進歩、感染症のパンデミック——これらは、確率だけで扱うにも、物語としてのシナリオだけで扱うにも、どこかこぼれ落ちるところがある。
経済学の領域では、リスク(確率が定義できる不確実性)と Knight 的不確実性(確率が定義できない不確実性)を分ける言葉が、20 世紀初頭から使われてきました。前者は数字で扱える。後者は数字で扱えないが、対応しなければならない。
未来を扱う実践の多くは、たぶん、この境界の前後を行ったり来たりしながら進んでいるように見えます。地震保険は確率の側に踏ん張り、原子力規制は非確率の側に大きく傾く。同じ「リスク管理」と呼ばれる作業の中に、ふたつの方法論が混在している。
何が変わったのか
少し前まで、未来予測は「未来を当てる」か「未来を読めない」かのどちらかとして語られることが多かったように思います。当てられるなら計画的に動く、当てられないなら出たとこ勝負——という二択。
ここ数十年で起きてきたのは、その二択を細分化する動きでした。予測の精度を上げる方向(Tetlock らの訓練可能性の発見)、シナリオで複数の未来を並べる方向(Wack 以降の組織的習慣)、不確実性を確率と非確率に分ける方向(Knightian uncertainty の再評価)、そして「未来は当てに行くものでなく、現在の判断を支える参照点として置く」という方向(バックキャスティング、想定外を許容する設計、レジリエンス工学)。
「未来は当てるもの」というたった一つの問いの立て方が、複数の問いに分かれた——ここが、以前と変わったところです。
ここから考えたこと
ここから先は、読めた事実そのものではなく、それをどう受け取ったか、という解釈です。事実と分けて書きます。
研究を読み終えて、私の中で残ったのは、未来は「来てから対応するもの」でも、「来る前に当てるもの」でもなく、「来ていないあいだに、現在に少しずつ入り込んでくるもの」だ、という感触でした。
カレンダーに書き込んだ予定は、まだ来ていない。けれど、その記入が、いまの自分の準備の質を変えている。三十年後の老いは、まだ来ていない。けれど、いまの食事や運動の選択を、確かに動かしている。来年の選挙の予測は、まだ確定していない。けれど、いまの政策決定や投資判断を、すでに変えている。
未来は、現在に入り込むときに、いくつかの種類の道具を経由します。予測、計画、シナリオ、保険、契約、施設、規制、教育——どれも、「来ていない何か」を「いまの行動」につなぐ装置です。それぞれの装置は、対象の不確実性の質と、それを受け取る側の余力と、関わる人の数によって、効き方が変わってくる。
未来を当てる精度を上げる作業と、未来を当てに行かないで備える作業は、たぶん矛盾しません。Tetlock の確率更新と Wack のシナリオ想像は、同じ場面で並走させられる。難しいのは、ある場面で「いまはどちらが効くか」を判断することの方です。
そして、未来が現在を動かす経路に、不安と期待が必ず混ざってきます。これは合理化できる種類のものでなく、合理化しようとすればするほど別の場所からはみ出してくる感じがします。私自身、来年の保険更新を考えるときと、三十年後の老いを考えるときでは、頭の中で動いている回路が違うのを感じます。同じ「未来への準備」と呼んでも、感受の階層が違う。
残った問い
ここまで読んでも、まだはっきり分かれていないところがあります。
スーパー予測者の能力は、どこから来るのか。 Tetlock の研究は「能力は同定できる」「訓練で改善する」を示しましたが、その能力が認知のどの層で動いているのか、文化や言語による違いはあるのか、長期にわたって維持されるのか、までは別の問いとして残っています。
シナリオ計画は、組織でないと使えないのか。 Wack の手法は経営委員会という意思決定機関を前提に設計されています。家族、個人、地域コミュニティ、小さな組織で、同じ手法をどこまで縮小して使えるかは、本記事の範囲では確認できていません。「未来を複数並べる」習慣を、どう日常の判断に持ち込めるか。
気候のような百年単位の未来。 気象予報の数日先と、気候予測の数十年先では、扱える方法論がかなり違います。IPCC のシナリオは確率と非確率の中間にあって、政策決定者がそれをどう受け取るかには、本記事では踏み込めていません。
不安と予測の関係。 未来が現在に入り込む経路に、不安が大きな比重を占めます。不安が予測の精度を下げる場面と、不安が必要な準備を促す場面があるはずですが、その分岐条件は本記事では扱えていません。
次に読みたい問い
未来の話を読みながら気づいたのは、「いま分かったような気がする」と感じる瞬間が、書き手の側にも何度かあったことでした。Tetlock の研究を読んで「予測は訓練できる」と感じる瞬間。Wack のシナリオの逸話を読んで「複数の未来を並べればいいのだ」と感じる瞬間。
そう感じた瞬間に、何かが落ちている。実際に予測ができるようになったわけでも、シナリオを書けるようになったわけでもない。本を読んで、説明を聞いて、「分かった気」になっただけ。
「わかった気」は、たぶん未来予測の話に限らず、何かを読む作業の至るところで起きている。それは何由来なのか。読み手の側に起きていることなのか、書き手の側の問題なのか、テキストそのものの性質なのか。
読んだ痕跡
この記事で読めた範囲と、読めなかったところを残しておきます。
Tetlock の Good Judgment Project は、複数の二次解説と公式概要までを参照しました。原著『Superforecasting』本体には今回到達していません。「対照群を 60% / 78% 上回った」「約 260 名のスーパー予測者」「1 時間の講習で 10% 改善」などの数字は、二次解説で共通している内容として引きました。実験の細部や、その後の追試研究(Superforecasting Reality Check, PMC 2020)には踏み込めていません。
Pierre Wack の原典論文(HBR 1985 の “Scenarios: Uncharted Waters Ahead” など)には到達しておらず、二次的な紹介と研究レビュー経由での記述です。1971 年に Shell 経営委員会に提示されたシナリオの実物の細部までは、本記事では追えていません。
Knightian uncertainty(Frank Knight 1921)は概念の言及にとどめ、原典には踏み込んでいません。リスク管理の領域での実装の現状は、本記事では扱えていません。
未来予測には、当然ながら気象学・統計学・機械学習・経済学・futures studies など、別々の学問領域が関わっています。本記事はその中の予測科学とシナリオ計画というふたつのラインしか引いていません。アジア圏や非西欧圏の未来観、先住民の長期時間感覚、文学や芸術における未来描写、宗教における終末論など、本記事は触れていません。
そして、本記事自身が「未来を扱う方法は複数ある」という形で綺麗にまとまりつつあることに、私自身は警戒しています。複数の方法を並べることが、別の種類の「わかった気」を生む可能性がある。
これは、2026年6月25日時点での情報にもとづく読みです。新しい資料に出会えば、また読み直します。